短編小説: 歪んだ物差し

歪んだ物差し

統計局第七会議室。

空調は一定。
照明は均質。
机上には最新版SNAマニュアル。

「速報値、確定しました」

若手が読み上げる。

「名目GDP、世界第五位」

誰も顔を上げない。

「為替要因が主です。実質では大きな変化はありません」

「誤差範囲は?」

「±2%」

「順位逆転の可能性は?」

「理論上はあります」

理論上。

会議室に笑いは起きない。
ここで笑う訓練は受けていない。

「報道向け資料には注記を入れます」

若手が言う。

“為替の影響を受けるため、国際比較には留意が必要です”

主任はうなずく。

「“留意”で足りるか?」

「“十分な留意”に修正します」

十分。

何が十分かは定義されていない。
だが、十分である。

スクリーンに各国の数字が並ぶ。
同じフォント、同じ単位で。

人口三億、人口一億二千万、 人口五百万。
資源国、サービス国、輸出依存国。
文化、歴史、民族、制度、気候、地理。

何もかも異なる国が、すべて同じ列に整列している。

整然と。

「同一基準で作成されています」

若手が説明する。

「統計能力の差は?」

「評価不能です」

「地下経済は?」

「推計不能です」

「政治的影響は?」

若手は一瞬だけ間を置く。

「公表されていません」

主任は満足げに頷く。

「つまり、比較可能だ」

会議室の空気は動かない。

「SNSでは“衰退”との声が」

「前年比は?」

「横ばいです」

「実質成長率は?」

「0.6%」

「ならば衰退ではない」

主任は資料を閉じる。

「ただし、順位は下がった」

それが事実だ。

事実は単純であるほど扱いやすい。

別の職員が口を開く。

「一人当たりGDPでは依然として上位です」

「PPPでは?」

「若干改善します」

「幸福度指数は?」

「主観調査のため比較困難です」

「ではGDPを使いなさい」

議論は終わる。

夜。
主任は最終確認を行う。
生産面と支出面の差を調整する。
統計的乖離、0.28%。
許容範囲内。
誤差は常に存在する。
だが、順位は整数で表示される。

一位。
二位。
三位。
四位。
五位。

誤差は四捨五入される。
国家は四捨五入されないが。

主任は窓の外を見る。
暗い街に光が点在している。
あの光のいくつかは地下経済かもしれない。
あるいは家事労働かもしれない。
あるいは幸福かもしれない。

いずれもGDPには含まれない。
含まれないものは、存在しない。
少なくとも、表には。

翌朝。
見出しが並ぶ。

「日本、五位転落」

転落。
主任はコーヒーを飲む。

「定義に“転落”はない」

職員は頷く。

彼らの任務は、感情を排除することだ。

定義すること。
整合させること。
誤差を閉じ込めること。

物差しの材質は問わない。
目盛りが揃っていれば、それで良い。
例えそれが歪んでいたとしても…



あとがき

GDPに限らず、世界各国のさまざまな統計データを並べて、日本と比較しながら議論する光景は日常的に見られます。
一見すると、エビデンスに基づいた合理的な議論のように映ります。

しかし私はいつも、ある疑問を抱きます。
その数字は、本当に同じ条件のもとで測られたものなのか。

小学生の理科で、水の温度を変えると溶ける塩の量が変わる、という実験を行ったことを覚えているでしょうか。
あの実験で重要なのは、温度だけを変え、水の量は一定に保つことです。
水の量が違えば、同じ温度でも溶ける塩の量は変わります。
その状態で「温度が原因だ」と結論づけるのは、科学的とは言えません。

国際統計の比較も、構造は同じです。
人口構成、資源、産業構造、地理条件、制度設計――
前提条件が異なるまま数値だけを並べれば、それは分析というよりも“印象の演出”に近くなります。

もちろん、多くの人はこうした前提の重要性を理解しています。
それでも時折、条件の差を無視して単純比較だけで結論を導く議論に出会うと、少し気になってしまうのです。

数字は客観的に見えて、その背後には必ず「測定条件」という文脈が存在します。
そこに目を向けない限り、どれほど精緻なデータでも、科学実験で水の量を揃えずに結果を語るのと本質的には変わらないのではないでしょうか。

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