ラベルの魔法
それは最初、AI(人工知能)と呼ばれていた。
ニュースはこう報じた。
「AIが文章を書いた」
「AIが判断を下した」
「AIが人間を超える可能性」
人々はざわめいた。
ある者は期待し、
ある者は恐れた。
そして多くの者は、とりあえず使った。
「AIは考えているのか?」
という問いが、至るところで繰り返された。
「考えている」
「いや、ただの計算だ」
その議論の横で、人々はAIに考えさせていた。
ある日、一人の研究者が言った。
「“AI”という名前が問題なのではないか?」
「知能と呼ぶから誤解する。
これは知能ではない。反応だ」
数ヶ月後、新しい呼び名が提案された。
ECHO(Enhanced Cognitive Helper)
――人の言葉を受け取り、整えて返すもの。
最初、人々は笑った。
「名前を変えただけで何が変わる」
その通りだった。
中身は何も変わらなかった。
だが、すべてが変わった。
ニュースは変わった。
「ECHOが文章を生成」
「ECHOが回答を提示」
「考えた」という言葉は消え、
「便利だ」という言葉が増えた。
ある学生が言った。
「AIのときはちょっと怖かったけど、ECHOなら安心だな」
友人はうなずいた。
「ただの反射だしな」
その翌日、彼らはECHOにレポートを書かせた。
安心して丸ごと提出した。
大学は特に問題視しなかった。
なぜならそれはAIではなく、ECHOだったからだ。
ある企業では、会議の進め方が変わった。
以前は人が議論していたが、
今は最初からECHOに要点をまとめさせた。
議論は短くなった。
結論も早く出るようになった。
誰も反対しなかった。
最初から反対意見も、ECHOが整えてくれていたからだ。
人々は言った。
「これは意思決定ではない。整理だ」
その整理に従った。
やがて「AI」という言葉は消えた。
それは大げさで、誤解を招く言葉として扱われた。
ただ一人、年老いた記者だけが、
昔の記事を読み返していた。
「AIが考える時代へ」
彼は少し笑った。
隣の若い記者が言った。
「古いですね。それ」
老人は今の画面を指さした。
「ECHOが最適解を提示」
「何も変わっていないな」
若い記者は首を振った。
「違いますよ。
今はただのツールです」
老人はうなずいた。
「そうだな。
だから皆、安心して従うようになった」
若い記者は少し黙った。
その夜、彼は記事を書いた。
タイトルはこうだった。
「人は“何を使うか”ではなく、“何と呼ぶか”で使い方を変える」
記事は高く評価された。
論理的で、バランスが取れていて、読みやすかった。
彼は満足した。
そして、ふとつぶやいた。
「これは、いい記事だ」
そのとき、画面の端には小さく表示されていた。
“Generated with ECHO”
彼はそれを見て、少し考えた。
そして設定を開き、表示をオフにして文章を追加した。
「これは、私の言葉だ」
その一文だけは、自分で書いた。
少しだけ不格好で、少しだけ浮いていた。
だが翌日、編集長にこう言われた。
「最後の一文だけ、浮いてるな。ECHOで整えてくれ」
彼は少し迷った。
ほんの一瞬だけ。
そして、整えた。
記事は完璧になった。
あとがき
「名は体を表す」という言葉があります。
私は、この言葉は本質を突いていると感じています。
しかし現実には、名称がその実態を正確に表しているとは限らず、むしろ人の認識を巧みにミスリードするために存在しているのではないか、と疑いたくなる例も少なくありません。
身近な例として挙げられるのが消費税です。
この名称からは、いかにも消費者が主体的に負担しているかのような印象を受けますが、実際の仕組みは、事業者が付加価値、すなわち粗利の一部を税として納めるものです。
もちろん、こうした名称は偶然そうなったわけではなく、むしろ誤解が生まれる余地まで丁寧に設計されているのでしょう。
実に見事なネーミングと言えます。
誰もが自然に同じ方向へ誤解してくれるのですから。
だからこそ、本来の機能や目的を正確に表す言葉が用いられれば、人々の理解はより深まり、議論もより本質に近づくはずです。
名前が現実を隠すのではなく、照らし出すものであるならば、社会はもう少し健全な姿に近づくのではないでしょうか。
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