分類は間違えない
その街では、すべての人間が正しく分類されていた。
少なくとも、そういうことになっていた。
分類は絶対だった。
なぜなら、分類は科学であり、科学は間違えないからだ。
主人公のラベルはこうだ。
「温和で協調的、対立を避ける安定個体」
本人も納得していた。
というより、納得することが推奨されていた。
ある日の会議で事件は起きた。
上司が明らかに無理な計画を提示した。
全員が黙る中、なぜか彼は手を挙げた。
「その案には問題があります」
会議室が凍りついた。
上司はゆっくりと彼のラベルを確認する。
「……君は“対立を避ける”個体のはずだが?」
彼も自分のラベルを確認する。
間違いない。
「はい、その通りです」
「では、その発言は不適切だ」
数分後、会議は中断された。
彼は「行動評価室」に連れていかれる。
白い部屋。白い机。白い担当官。
担当官は優しく言った。
「安心してください。分類に誤りはありません」
彼は少しほっとした。
だが、すぐに違和感が来た。
「では、私の発言は?」
担当官は微笑んだ。
「誤作動です」
モニターに彼の行動履歴が表示される。
-
昨日:穏やかな相槌
-
一昨日:無難な同意
-
先週:衝突回避成功
担当官は満足そうにうなずく。
「見てください。完璧です。あなたは極めて安定した個体です」
「では、今日の発言は?」
「例外です」
彼は少し考えてから言った。
「例外があるなら、分類が違う可能性は?」
担当官の笑顔が一瞬だけ固まった。
「それはありません」
「なぜですか?」
担当官は少しだけ声を低くした。
「分類は正しいからです」
数秒の沈黙。
そして、担当官は再び明るい声に戻る。
「大丈夫です。簡単な調整で済みます」
別室に案内される。
そこには機械があった。
「行動整合装置」と書かれている。
彼は椅子に座らされる。
「何をするんですか?」
「あなたの行動を、正しい分類に合わせます」
装置が起動する。
軽い振動。穏やかな音声。
「対立回避が最適です」
「異議は不安定です」
「同意は安心です」
彼の頭の中で、何かが静かに整列していく。
処置後、彼は再び会議室に戻された。
上司が同じ説明をする。
彼は手を挙げる。
皆が息をのむ。
「素晴らしい案だと思います」
上司は満足そうにうなずいた。
会議は円滑に進んだ。
その夜、彼は自宅でふと思った。
「本当に問題はなかったのだろうか」
しかしすぐに、違和感が消える。
アプリが通知を送る。
「本日のあなたは“安定した判断を行う優良個体”です」
彼は安心した。
数日後、別の社員が同じことをした。
その社員のラベルは
「論理的で批判的思考を持つ改善志向個体」
彼は会議で何も言わなかった。
当然、その社員は「行動評価室」に呼ばれた。
「なぜ発言しなかったのですか?」
社員は答える。
「特に問題はないと思ったので」
担当官は困った顔をした。
「それはおかしいですね」
「何がですか?」
「あなたは“批判的思考”の分類です」
数分後、結論が出た。
「発言しなかった行動が誤り」
その社員も調整された。
次の会議で彼は言った。
「この案には問題があります」
内容は特になかった。
だが、それで良かった。
街は今日も正しく動いている。
誰もが正しい分類に従い、
正しい行動をとる。
分類は間違えない。
だから、間違えるのはいつも人間の方だ。
そして、誰も気づかない。
もし、すべての行動が分類に合わせて修正されるなら――
その分類が正しいかどうかを確かめる方法は、もうどこにも残っていない。
あとがき
昔、コウモリは哺乳類か鳥類か、あるいはスイカは果物か野菜か、といった議論を目にしました。私は当時から、対象を既存のカテゴリーに無理に当てはめようとする風潮に、どこか違和感を抱いてきました。
本来、分類の価値とは「そのカテゴリーに属することで、対象の特性を効率よく推察できること」にあるはずです。カテゴリーから類推できない固有の特性を持つものに対し、強引に既存の枠組みを適用することは、実質的な意味をなしません。
人類には、未知のものを既知の枠に収めて安心したいという、本能的な「カテゴリー分けへの欲求」があるようです。かつては生存や実用に直結する「意味のある分類」が主体でしたが、現代ではネットの影響により、日々新しいカテゴリーが乱造されています。
今や、本質的な理解を助けるためではなく、単にラベルを貼ること自体が目的化しているように感じられます。意味の薄い分類であっても、デジタルな海の中では瞬く間に拡散され、私たちの目に飛び込んできます。
さらに危惧すべきは、分類が本来の「理解の助け」ではなく、「固定観念による単純化(ステレオタイプ)」の道具として機能してしまっている点です。枠組みに当てはめた瞬間に、私たちは対象を「知った気」になり、その個体が持つ固有の性質を見逃してしまいます。
私は、まず先にカテゴリーという箱を用意するのではなく、まずは対象を「観察」し、その後に必要に応じて分類を検討するという順序を大切にしたいと考えています。レッテルというフィルターを通さず、対象のありのままを見つめる姿勢こそ、情報過多の時代に求められる知性ではないでしょうか。
コメント