短編小説: 最初の風景

最初の風景

 少年が最初に見たのは、青い球体だった。

 暗い教室の中、壁いっぱいに映し出されたそれには、線がなかった。
 色の境目はあっても、区切りはない。名前もない。

「これが、私たちの住んでいる場所です」

 教師はそう言った。

 少年は不思議に思った。
 “場所”というより、それは“ひとつのもの”に見えた。

 どこからどこまでが自分なのか、分からない。
 だから逆に、全部が自分の中に含まれているような気がした。

 その日、彼は初めて思った。

 ――自分は、地球人だ。

 だが、そのあとに与えられたのは、たくさんの線だった。

 地図が配られた。
 色分けされた世界。太く引かれた境界線。
 そこには国の名前が書かれていた。

 彼は自分の国の位置を覚えた。
 その歴史を学び、言葉を覚え、歌を歌った。

 友人と同じ色の領域に属していることを誇らしく思った。

 やがて、「地球人」という言葉は使わなくなった。
 代わりに、彼はこう名乗るようになった。

 ――〇〇国人。

 大人になった彼は、政府の一員として働いていた。

 国境は厳格に管理され、資源は国家ごとに割り当てられる。
 世界は協調しているようでいて、常に微妙な均衡の上にあった。

 ある年、異常気象が続いた。

 複数の地域で同時に作物が不作となり、食料が不足した。
 各国は備蓄を守るため、輸出制限を強化した。

 彼の国も例外ではなかった。

「まず自国民を守るべきです」

 会議で誰かが言った。

 当然の意見だった。
 彼もそう思った。

 だが、その夜。

 彼は偶然、古い教育用の映像を目にした。

 青い球体。
 境界のない、あの地球。

 子どもの頃、最初に見た風景。

 胸の奥で、何かが揺れた。

 忘れていた感覚が、ゆっくりと浮かび上がる。

 ――あのとき、自分は何だと思った?

 次の日、彼は報告書を読み返した。

 自国の備蓄を守れば、多くは助かる。
 だが、他国では飢餓が拡大する。

 逆に、備蓄の一部を開放すれば、
 自国の安全はわずかに揺らぐが、全体としての被害は大きく減る。

 数字は冷静にそう示していた。

「どちらを優先するのか」

 上司が問う。

 彼は少しだけ目を閉じた。

 浮かんできたのは、地図ではなかった。

 線のない、あの球体だった。

 彼は口を開いた。

「一部の備蓄を開放するべきです」

 部屋の空気がわずかに変わる。

「理由は?」

 彼は一瞬、言葉を探した。

 国家としての合理性はいくらでも説明できる。
 だが、それだけでは足りない気がした。

「私たちは――」

 そこで、彼はほんのわずかに迷った。

 そして、言い直した。

「私たちは、地球人です」

 沈黙が落ちた。

 その言葉は、場違いにも聞こえたし、
 同時に、どこかで誰もが知っている言葉でもあった。

 決定が下るまで、時間はかからなかった。

 完全な合意ではなかったが、
 提案は限定的な形で採用された。

 数週間後、輸送船がいくつかの地域へ向かった。

 劇的な変化ではない。
 世界は相変わらず、複雑で、不均衡なままだった。

 だが彼は知っていた。

 何かがほんの少しだけ、方向を変えたことを。

 帰り道、彼は空を見上げた。

 もちろん地球は見えない。
 だが、あの形はもう知っている。

 線は、あとから引かれたものだ。

 最初にあったのは、境界のない一つの風景。

 彼は静かに思った。

 あのとき見たものは、消えたわけではなかった。

 ただ、奥に沈んでいただけだったのだと。

 そして、必要なときにだけ、
 それは再び、浮かび上がる。

あとがき

中学1年生の時、理科の教科書の表紙に載っていた「地球の写真」。それを見た時の感覚は、今でもはっきりと覚えています。その瞬間に「自分は地球人なんだ」というアイデンティティが自分の中に生まれました。

もちろん、それまでのいろいろな経験も影響していたとは思うのですが、あの写真が決定的なきっかけになったのは間違いありません。

だからといって、その後の生活が劇的に変わったわけではありません。
今でも多くの人と同じように、自分や家族、友人、そして職場や地域、国、といった身近なところを優先して、日々を過ごしています。

ただ、自分の中に「地球人」という意識が芽生えてからは、ちょっとした変化がありました。 たとえば、オリンピックで他国の選手が活躍していても喜べたり、逆に他国を悪く言うような言葉を目にすると、なんだか気分が悪くなったり。そんな心の変化です。

将来、宇宙旅行がもっと身近になって、誰もが自分の目で地球を眺められる時代が来るかもしれません。 そうなれば、きっと多くの人が「自分たちは同じ地球人なんだ」という実感を持ちやすくなって、今起きている難しい問題も、少しは解決に向かうのではないかと思っています。

あるいは、子供達に国境線が引かれた地図を見せる前に、青い地球の写真を見せる。それだけでも変化があるのではないかと思っています。


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